命学館コラム　「空」ということ

◆「空」ということ

　今年（２００４年）１月２２日の日経新聞に般若心経を様々な言語に翻訳しているフランス人の言語学者ジャリ・ジャク氏が紹介されていました。氏は、般若心経の説く仏教の無常観に心を揺さぶられ、新鮮な感動を覚え、同じ感動を世界中の人々に体験してもらいたいとの思いから、これまで２３ヶ国語に翻訳されたとのことです。

　氏は色即是空､空即是色の空について実体がないことと理解し、世の中に存在するものに永久不変のものはないことを説いた言葉と理解しています。この空という言葉を訳すにあたってはかなり苦労されたようで、英語では結局「empty」の名詞形である「ｅｍｐｔｉｎｅｓｓ」という言葉を選んだそうです。

　空ということについての氏の理解は一般常識として多くの人々に理解されていることですのでなんら異論はないのですが、到彼岸のための般若の第一歩である真実の「空」を求めるということであれば話は別です。多くの人が生れ、苦のなかに生き、そして総ての人は必ず死ぬ。またこの世にあるもので永久にその姿を留めるものはない。確かにこれはこの世の真実の姿であり、人間の力でどうにもなるものではありません。一般に釈迦といわれるゴーダマが四聖諦として認識・理解した中の苦諦がこれに当ります。これはゴーダマに限らず誰でも納得できる世界の真実ですが、ゴーダマはここに止まらず集諦・滅諦・道諦と進み、ついに煩悩の川を渡って彼岸に至り覚者となりました。

　「空」という概念はゴーダマが覚者となるステップの中で一番最初に悟ったことです。この「空」という概念は、本当は概念ではありません。明確な事実です。このことが認識できなければ智の遊戯に陥ります。ゴーダマの弟子で覚者になったものは数人いますが、弟子を含む多くの人はこれを概念としてのみ理解したために智の海に漂うのみで彼岸に至らず、結局大乗経典のようないい加減なものしか生み出すことが出来なかったのです。

　では、ゴーダマは一体どのようなことから空という事実を認識したのでしょうか。その答えは般若心経のなかに書かれています。経文では「色即是空､空即是色」に続いて「受想行識亦復如是」とあります。この句は人間の認識・思考すら空であるといっているのです。かって「我思う、故に我あり」といった哲学者がいましたが、「思う」ということすら「空」であるといわれたらこの哲学者は自分の存在をどのように証明するのでしょう。

　ゴーダマは人間なんてどうせ死んで滅ぶものだ、人間の認識すら死と共に滅ぶものだ、などと言うことから「受想行識亦復如是」と言ったのではありません。生きている人間の認識・知覚の働きとその限界を知り尽くした上でこう述べたのです。以下に人の認識すら空であり実体のないものであるということを簡単な例を引いて具体的に述べてみましょう。

　今あなたのいる部屋の中を見回して赤い花を探してみてください。・・・・いかがでしょう。見つかりましたか？
　では、赤い花以外で緑のものはどこに何があったか覚えていますか。青色のものはどうでしょう。おそらくあなたは明確に答えることはできないと思います。これだけでも人間の目には総てのものが映っているにも関わらず、総てを認識することができないということがお分かりいただけたと思います。目に映るものはすべて現実に存在するもの即ち実体があるはずのものですが、意識を向けたもの以外は見えていない、即ち実体がないものと同じ認識でしかなかったということです。
　※華道のある流派の伝書のなかに、表現は違いますが同じ内容が書かれていたことを記憶しています。

　次にあなたの見た「赤」という色が他の人の見る「赤」と同じ色であるということを証明してみてください。例えばここに一輪の赤い薔薇があります。この薔薇は「赤い」と誰もがいうでしょうが、あなたが認識した「赤」と他の人が認識した「赤」と同じであるという確たる根拠はどこにあるのでしょうか。もしかしたら自分が見ている赤とは違う色をみているにも拘わらず同じ赤と言っているのかも知れません。違う色を見ても、それを「赤」だと幼い頃から刷り込まれたら表現としては「赤」と言うでしょう。また、あなたの聞いている音はどうでしょうか。自分が耳で聞いて認識している音質や高低が他の人が聞き認識しているものと全く同じであるという確証はどこに求められるのでしょうか。

　自分とは別に存在すると思われるこの世のすべては、実は人間一人の認識作用により存在しているに過ぎません。あなたはこの絶対的な孤独に気付かれたでしょうか。しかしながらこの何ら他人と共有することがない不確定で不安定な認識作用でしか存在を認識するしかない。これが「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」の意味です。単にこの世の無常を説くというような皮相なものではありません。

　ゴーダマはこの「空」という認識作用の初歩レベルから次第に心を深く探求し、ついに覚者となります。「心の工夫こそ彼岸に至る唯一の手段である」。ゴーダマはこう述べただけで本人が彼岸に至った経緯や工夫の内容は具体的に話しませんでした。なんとなれば心の工夫は本人のみがよく成しえることであるからです。他人の心は他者をもって覚らせることは出来ません。それ故、ゴーダマは弟子に対して「わたしはあなたを悟らせることはできぬ」といい、又入滅する前、弟子から「あなたが亡くなったあとは何に頼ればよいのでしょうか」との問いに「なんじ自身の心を頼れ」と答えたのです。

　話を元に戻します。ジャリ・ジャク氏が理解した「空」はゴーダマが説いたものとは雲泥の差があります。これは永らく世の仏教がゴーダマの言葉を探ることもなく荒唐無稽な華厳や法華などを始めとする大乗経典という妄説のみに囚われ、加えて僧侶も我利我利亡者と成り果てて金に血眼となってきたからです。こういった現状ではゴーダマの説いたことが伝わらないというのは致し方がないのかも知れません。しかしこういう事態が、真実の般若を覆い隠し誤解を世に、いや世界に広めていくこととなるのです。

＜補記＞
　僧侶が妻帯し、般若湯と称して酒を飲み、高額豪華な袈裟を着込み自宅の改築などの寄付を檀家に要求する。人が亡くなれば葬式代として百万円前後の金額を当たり前のように要求し、金額により戒名にも差をつける（そもそも死んでからの戒名など何の意味もありません）。最近は仏教を広めるためと称して寺で自ら楽器を奏で歌を歌うなど、僧侶とは世間で真っ当に生きられない人間の代名詞となっています。しかもどんな下らぬ僧でも寺から追い出すことが非常に難しい。

　おそらくこういう僧侶の堕落は、仏教伝来以来すぐに表われてきたことでしょう。比叡山を焼き討ちした信長も単に政治的な考えだけではなかったと思います。当時の状況では焼き討ちされて当然でした。

　＜補記２＞
　「空」は彼岸に至るための心の工夫の第一歩であることを述べました。ではそれ以降はどのようにすればよいのでしょうか。この問いに対する答えはゴーダマが言ったように、自分自身の心を頼りとして自分で工夫をするしか有りません。でもこれだけではあまりにつれない答えとなってしまいますので一つだけヒントを差し上げましょう。

　「四分」という言葉をご存知でしょうか。これは唯識学で使われている用語で「相分、見分、自証分、証自証分」の四つを言います。この四分説は唯識の中でも古来より最も重要で且つ難解な思想とされているものですが、心の工夫が深まるにつれこの四分ということが難解なものではなくごく自然にしかも現実のものとして明確に分かるようになります。この段階までくればこころの工夫も半分まで到達と言ってよいかと思います。

（2004年2月22日）